松岡正剛の仕事論(2)「生涯現役」か「楽隠居」か

 前回に続き、松岡正剛さんの仕事論、二回目です。山口昌男さんと隠居談義に入ります。

●早く隠居すればいい
 山口 「はか」の考え方で面白いのは、近代以降の日本人は早く隠居しなくなった。今でも七十歳になっても大臣になりたがっている人が多いわけでしょう。ところが、信長の「人生五十年」じゃないけれど、そこまでいったらいいほうでね。
 松岡 三十過ぎたら引退。
 山口 隠居の準備をしたと思う。江戸や大坂の町方の話ですが、社会的に一回死んでしまったということがあった。「はか」という言葉は使わないけれども、その延長でやっていたというというような感じがする。だから若いものでも社会的な死を契機にして、もう一回生き直すために芸をたしなんだ。小唄を習ったり、歌舞伎の名台詞をうなったり、死を早く招来して、そのうえでもう一回違った生き方をする可能性を、かなりの層の人間がやっていたと思う。農民だって家督を相続し、隠居するというのがふつうだった。民俗学が日本各地で制度化されているものとして研究対象にしてきた。そういう意味でのアーリー・リタイアメントが日本では自然だった。
 松岡 それがなくなった。個人も企業もギリギリまでサイズを大きくしていって、もうだめだというところで次を考える。
 山口 定年なんか延長しないで、五十歳で定年ということを考えるとこともひとつの方法です。イギリスの大学では五十歳定年で、自ら志願して定年になったら、八割の給料がもらえる。日本でもそういう制度をそろそろ設けていかなければならないのではないのか。企業でも官庁でも、一人ひとりの内部的な死を許容するようなゆとりをそろそろもってきてもいいんじゃないかと思う。
 松岡 僕もそう思います。それを「四生同堂」のシステムと呼んでいます。私は京都生まれの京都育ちですが、鶯がいて犬、猫がいる。座敷には仏壇が開きっぱなしで、いつもお線香が立っている。その向こうには死んだ祖父や祖母たちがいる。そして父親がいて妹がいる。そういうふうに複数のライフサイクルが同じ家のなかにある。
 企業や個人がアーリー・リタイアメントをするためには、さまざまな違ったライフサイクルとしょっちゅう出会っていないとだめだと思うんです。四生同堂をしていなきゃいけないのに、自分個人やたった一個の企業自己がもっているライフサイクルだけを追求しようとする。別のライフサイクルをそこで排除してしまう。そうではなく、たくさんのライフサイクルを取り込まないといけない。四生同堂システムを復活したほうがいいと言っているんです。
 山口 四生というのは四つの生という意味ではあるけれども、死と生とがごちゃまぜになっている組織をわれわれがつくっていく必要もあるのではないか。大学でも企業でもみんなそうだ。一定の人間だけで維持しようとするから無理がある。飽きると外へ出ていったり、いろいろな人が入ってきたり、ボーダーをはずす。そうして社会的死をなかに抱え込みながら運営していく必要があると思います。

 引用は以上です。
 楽隠居と聞くと、うらやましい理想の老後という感じがしますが、隠居とは、自身や組織の中に、生と死の多様なありようを取り込む見事な人事制度だったわけですね。昔の人はエライ。
 この本が出たのは二〇〇一年。以来、十年あまりがすぎて、生真面目で少し余裕のある大手企業から順に、むしろ定年延長に舵を切り始めました。
 いまのところ、定年延長後も、引き続き同じ職場で同じような仕事を続ける。ただし、用意できる給料の総量には限界があるため、延長後は給料がやや減る分だけ、働き方がややゆるくなる――というかたちで始まりそうですね。
 働くのが大好きで、働く使命感に燃える日本人には、「生涯現役」志向が強いのですが、この定年延長の動きが、人生の残業のような「ずるずる延命」だけに終わってはもったいない。いつまでも気持ちよく働けるよう、定年延長が新しい企業文化を創造するような制度に育つことを期待したいものです。そのためにも、先人たちの知恵である隠居制度を、うまくからめると面白いのではないでしょうか。