松岡正剛の仕事論(1)/「かせぎ」と「つとめ」

 山口昌男さんをしのび、山口さんの著書『はみ出しの文法/敗者学をめぐって』(平凡社・二〇〇一年)を読んでいます。多士済々の文人たちとの対談で構成されていますが、松岡正剛さんとの対談で、松岡さんが仕事に関して言及している箇所が、印象に残りました。二回に分けて引用させていただきます。
 対談のタイトル、サブタイトルは『今「負け派」の系譜を思い出せ』『「死のもどき」を考えるべき日本の企業社会』です。

●「はか」の喪失
 松岡 「はかない」という言葉がありますね。それを調べていったら、中世社会までは「はか」という単位がある。成果をめぐるある種の量、情報の量です。「はかどる」とか「はかばかしい」などと、今でも使う。そういう「はか」という単位が人間のなかにあって、その人のもっている「はか」が、ある一定量に達して超えてしまったら終わり。そして「はか」のない生活に入っていくということを肯定的に「はかなし」と呼んだわけです。「はかがなくったっていい」という『負け派』の美学です。そのはかないものに行けば死が近づいてきて美学もできるのですが、その「はか」を測ることが、今日の日本人はできなくなったのではないか。
 それに関連して言うと、いま日本人は働きすぎといわれるけれども、日本には「つとめ」と「かせぎ」というふたつの労働の観念があった。かつては「かせぎ」がたくさんあっても一人前と認められない。「つとめ」はいくら稼いでいようと関係なくて、例えば堤防の決壊、火事、凶作、干害、死人が出た、というとパッと出て行ってふんどし一丁で働く。これが「つとめ」。そうするとはじめて「おとな」として認められる。
 今は「かせぎ」がいいかもしれないが、労働観念のなかから「つとめ」というものをなくしてしまっている。人間を見る目、あるいは社会人を見る目が「かせぎ」型になっている。企業にしても『日経』のデータもそうですが、売上高、経常利益、収益率といった『かせぎ』のほうのデータだけ出している。
 山口 銀行のモラルの崩壊はそこからきたとよく言われています。
 松岡 「つとめ」としての労働価値を認めなくなっているというのがひとつの問題です。言い直すと、日本人がかつてもっていた「はか」という単位を喪失したことに関係があるんじゃないかと思っているんです。

 引用は以上です。「かせぎ」と「つとめ」。心当たりがありませんか。昨日の「町工場」&「立ち呑み屋」の兼業論に引き付けて考えてみますと、ものづくりの「町工場」が「かせぎ」に相当し、サロンづくりの「立ち呑み屋」が「つとめ」の役割を担っているともいえないでしょうか。
 「かせぎ」と「つとめ」をワンセットにして、仕事に向き合っていくための工夫を凝らしていきたいものですね。次回は、松岡さんの「隠居」の効用についての示唆に富んだ発言をご紹介しますので、お楽しみに――。