転職のフォークロア(8)浪人たちが見上げた空

 転職のフォークロア(7)「素浪人を温存する社会」で、大坂の陣の開戦に伴い、大坂城に浪人たちが詰めかけたと書きました。今回はその続きです。元大阪城天守閣館長岡本良一さんの著書『大坂冬の陣夏の陣』(創元社・創元新書)を参考にして進めさせていただきます。
 大坂冬の陣は慶長14年(1614)、夏の陣は翌15年(1615)。徳川家康関ヶ原で完勝したものの、天下取りを急ぎません。実に15年もの歳月を費やして豊臣の残党たちを追い詰め、満を持しての城攻めです。大坂びいきの筆者にして、家康はほんまに敵ながらにしてあっぱれの古だぬき。ラグビーでいえば、いつでもトライできるのに、PKで3点ずつ加点してリードを広げながら時間をうまく使い、残り5分、怒涛のトライラッシュでとどめをさすといったところでしょうか。
 かくなる家康の完勝戦略を知ってか知らずか、大坂城に浪人たちが結集します。
 関ヶ原以来、ちまたには浪人たちがあふれていました。戦後取り潰しになった西軍側の大名90家・減封4家の合計石高は669万石。そのほか、相続人がなかったり、幕府の禁令を犯すなどして廃絶になった大名が36家・297万石。双方合わせると全国で、おおむね1000万石。100石で武士3人と計算すると、約30万人の武士が失業したことになります。
 一方、東軍の勝ち組の中には、大出世した大将もいたでしょう。大幅の加増を受け、新規採用を実施した大名家もあったでしょうが、再就職は決して容易ではありませんでした。仮に半分が晴れて仕官できたとしてとして、残る浪人の数は15万人。事実、豊臣軍は浪人たちを次々採用し、またたく間に13万人もの大部隊を創設することができました。
 大坂の陣は失業対策事業を兼ねていました。城内の金蔵には、秀吉の残した軍資金がうなっています。士気を鼓舞するため、浪人たちに大判ふるまい。途中で現金が足らなくなる。秀吉が文字通りの成金趣味で作った純金製の茶室を、溶かして金貨に。挙句は城内の仮設工場で金塊を竹に流し込み、臨時の軍貨である「竹流し金」を作ってばらまきました。
 大部隊の構成を見てみましょう。家康をして「日本一のつわもの」と言わしめた真田幸村など、大臣経験者級の大名は数人しかいません。将校クラスが1万3000人程度。7万人が下士官クラスで、残りの5万人が雑兵という構成でした。
 指揮官不足が懸念される半面、1万人ほどの御本丸女中衆がいたとの記述が、残っているそうです(『大坂御陣山口休庵咄』)。なぜこれだけの女たちが城内に残っていたのか。存亡をかけた戦の準備を進めながらも、太閤殿下時代のバブルの残像を捨てきれなかったのでしょう。女性軍に罪はありませんが、このありさまでは、古だぬきに勝てるわけがない。勝敗の行方は、戦わずして決まっていました。
 冬の陣から年を越した夏の陣へ。炎上する大坂城とともに豊臣家は滅亡。家康は元和に改元し、戦国乱世の終結と安定政権の樹立を宣言します。翌年、政権の行方を見定めた家康は彼岸へ旅立ちます。
 天下はさながらラグビーボール。大勢の智将猛将たちの手をかすめて、信長から秀吉へ。ふたりの掌中を転々としながら、最後には、家康のふところにすぽんとおさまります。戦国ラグビーリーグが終わった瞬間です。
 試合で完敗し、再び浪々の身に戻った選手たちは、それでもピッチで立ち上がり、澄みわたった夏空を見上げたことでしょう。
 さてあしたは、どこの空の下へ――。