仕事の現場(3)ガリ版・和文タイプ・写植の切り張り

 北陸のとある地方新聞社。昭和五十一年度は新卒を採用しません。それでも諦めの悪いひとりの学生が本社を訪ねますが、正面玄関ではなく、裏手の守衛室へ。学生ですけど編集局へ行きたいのですがと告げると、守衛さんがそうかと通してくれました。厳重警備体制の今では考えられません。のんびりした時代です。
 記者は大方出払っているらしく、編集局はがらがらでしたが、それでも居残っている記者を見つけて、学生は隣の席に座り込みました。
「うちは今年、採らないそうだぞ」
「知っています。でも、縁故で少し採るようです」
「そうなんか」
「ひとつお願いがあります。私の推薦状を書いてください」
「私が君に? 無茶を言うなよ」
 初対面の人間に、いきなり「推薦状を書いてください」。この無茶を言っていた学生が、若き日の私です。
 人気フォーク歌手の手記を刊行していた東京の小さい出版社に押しかけ、同じように編集者の隣に座り、「なんとかひとり採用するよう、偉い人に言ってもらえませんか」と口説いていたのも、思い出しました。
 突然押しかけ、平気で隣に座りこむ。ストーカーまがいの大胆な行動が、どうして私にできたのか。ライターになってから、引っ込み思案でなまけものの自分との戦いが続いていることを考えると、不思議でなりません。あの日の怖いもの知らずのフットワークを、いまいちど取り戻したいものです。
 いずれにせよ、奇襲戦法も実らず、連戦連敗の憂愁深まる晩秋の御茶ノ水。やばい、なんとかしなければ。昼下がりの学食で飯を食いながら、求人情報誌に目を通していました。卒業即サラリーマンが当たり前の時代。焦りを覚えながら、求人雑誌のページをめくっていると、その雑誌の自社広告が目に留まりました。編集部がアルバイトを募集するという内容です。
 アルバイトでいいから、編集の仕事にありつこうと応募したところ、なんとか合格。同じように考えていた人間が大勢いたらしく、アルバイトではなく正社員として採用することにしたから、大学をちゃんと卒業して四月から来いということに決まりました。
 当時は入社前研修なんてしゃれた企業文化はまるっきりなし。ほとんど事情も知らないまま、四月に出社すると、同期が確か四、五人いました。そのうち私ともうひとりが編集部配属、残りが営業部や販売部だったような気がします。それまで人材は中途採用ばかりで、事実上の新卒採用第一期生とのことでした。
 編集部は新人ふたりを入れて、十数名。編集部とはいえ、求人広告の校正が主な仕事でした。日刊情報誌ですので、毎日大量の新規広告が作成されますから、けっこう忙しい。
 会社の周辺に、取引のある写植屋さんが何社か点在していました。それぞれ求人広告の版下を数本打ち終えると、サンダル履きで自転車のペダルをこいで編集部へ。「ちは〜っす」と版下を届け、代わりに新しい広告原稿を受け取って帰るの繰り返しでした。その版下と、営業マン手書き原稿を照らし合わせて校正するのが、私たちの仕事でした。
 写植機も版下も見たことのない世代が、いまは編集分野の主流になってしまいましたね。もっとおもしろいことに、写植機が出てくる前の主力技術だった和文タイプが、一、二台だけですが、編集部に置いてありました。
 数文字程度の誤字なら、写植屋さんに打ち直すを依頼する手間や時間がもったいない。編集部員が和文タイプを操作して自ら打ち直していました。
 和文タイプになると、もうさわったことのある方は、ほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。碁盤の目状に活字がびっしり並ぶ重たい盤面を、前後左右に移動させながら、打つべきひと文字を次々と探し出し、バッチンバッチンとロールに巻いた紙に印字していきます。しかも、字の難度に合わせて、重たい盤面をセットし直さなければいけない。素人にはとてつもなくむずかしい作業でした。
 ――あのぉ、鶯谷の鶯の字、どこにありますか?
 先輩に小声で聞いたり。いまこのブログを書きながら、40年あまり前の冷や汗がよみがえってきました。
 記憶がややあいまいなのですが、写植の20級ゴジックと、和文タイプの4Gがほぼ同じサイズで同じ字体した。ですから、当時の情報誌には同じ広告内に写植の文字と和文タイプの文字が仲良く同居していたことになります。新旧技術の混在併用は、「仕事の現場」でイノベーションの端境期にしばしば起こることです。
 この情報誌は、元々学生たちが自分たちのバイト探しのため始めた学生ベンチャーでした。創業時代を知る幹部たちは「若いころ、俺も求人の電話注文を受けながら、その場でガリを切ってたんだよ」と武勇伝を披露していました。ガリ版印刷。タイプ印刷よりも、さらに簡便な印刷技術でした。
 私は和文タイプ打ちの他、写植の誤植直しの切り張り作業も自分でこなしました。たとえば、時給200円が正しくは「250円」だったとします。
 まずデザインカッターで、版下の「200円」部分に四方から切れ目を入れ、印画紙表面の薄皮だけをはがします。次に、切り抜いた「250円」の版下部分のわずかな白い空きスペースに、デザインカッターの先端部分を突き刺す。その突き刺した版下のかけらを、スティックのりの表面にのっける。のっけた版下のかけらを、デザインカッターで傷つかないように左右にずらして、版下の裏にのりをつける。
 こののり付け作業を終えると、ふたたび版下かけらをカッターで突き刺して、冒頭で薄皮をはがしたスペースにはめ込む。最後はカッターのお尻の部分か、親指の爪先で軽く押さえ、版下と新しい版下のかけらをしっかり接着させると、ようやくおしまい。あれほど細かい手作業に向き合ったのは、生涯でこの編集部勤務時代だけでした。
 ガリ版和文タイプ、写植の切り張り。昭和の印刷技術は、私の近場でときに混在しながら、ゆるやかに進化を遂げていきました。かくして、連戦連敗の末、せめてバイトでもと飛び込んだ職場で、仕事文化というライフワークに出合うことになるのですから、人生はおもしろい。