仕事の現場(4)/長短可・委細面談・応相談

 昭和五十一年、私が入社した求人情報誌は若々しい職場でした。社員の大半が二十代、三十代前半。四十代以上は幹部などのごく一部だけ。ほとんど二十代の編集部はとても仲が良かった。
 ひとつだけ困ったのは風呂に入れないこと。毎日、仕事が終わると、編集部員が連れもって、飲みに出掛ける。居酒屋から始まり、スナックをはしごし、ときにキャバクラへという流れでした。だから、いつも終電近くになり、銭湯に行く暇がない。朝通勤電車に飛び乗るとき、「きょうは風呂に入るから、絶対早く帰るぞ」と気合を入れたものでした。
 当時はスナック文化全盛期。「だるま」と呼ばれた「サントリーオールド」を、キープ期限内に連続十本キープすると、次の一本はタダというスナックがあり、編集部員が一丸になってキープを続けたものでした。
 私の初任給が九万円。オールドをボトルキープすると、三千円。角、ホワイトが二千円、千五百円といったところでしょうか。「コンパ」と呼ばれた巨大洋風居酒屋や新宿ゴールデン街あたりでは、千五百円のホワイトで堂々と飲めました。
 新宿に「エアライン」という人気コンパがありました。丸いカウンターテーブルで囲まれた小さな島が店内に点在しているというしゃれた構成になっていた。それぞれの島では、異なる航空会社のスチュワーデスの制服を着たおねえちゃんが、愛想よく出迎えてくれます。 
 ――きょうはJALの××ちゃんがフライトしてるかな。
 ――たまにはエアフランスにしましょうよ。
 などと、目移りがして困ったものでした。コスプレの走りでしょう。美人ぞろいの上、不思議なほど店員教育が行き届き、しかも、若いサラリーマンが自腹で飲める。夢の空間でした。
 とはいえ、毎晩の飲み歩きとなれば、さすがに金が持ちません。給料は十日ほどで使い果たし、それ以降は次の給料日まで食いつなぐ日々。昼食の出前で、「××誌編集部です。かけうどんとライス五人前」などと頼むので、「おまえら、みっともねえだろ」と上司に怒鳴られたものでした。
 カラオケがあまり普及していないころですが、カラオケがなくても歌には困らなかった。学生の大半がギターを弾いていた時代ですから、どこのスナックにもギターのニ、三本は置いてありました。客の誰かがギターを弾き始め、その伴奏に合わせて、店全体が大合唱ということも少なくなかった。
 加山雄三、GS(グループサウンズ)、フォーク、津軽民謡、ロシア民謡、軍歌、革命歌インターナショナル。新旧、内外、右翼左翼なんでもあり。混沌たる「歌謡多様性の夜」が更けていきました。
 かくして風呂に入る暇もないほど、深夜まで全力で飲み続ける日々でしたが、朝も強かった。
 無遅刻無欠勤で精勤手当支給。日本の会社に多い、本来はまじめな社員で対するごほうびのはずですが、私の会社では各部が皆勤賞獲得競争で張り合っており、絶対に遅刻できない雰囲気ができあがっていました。編集部が営業部に負けるわけにはいかねえという源平合戦の発想です。若い社員たちをうまくコントロールしようという会社側の労務管理の一環でしょう。
 そんなわけで、どんなに遅くまで飲んでも、翌朝九時までには会社に飛び込んでいました。朝、あわてるのがいやなので、会社の近くの喫茶店へ早めに入り、モーニングを食って時間調整をしていたのを思い出す。
 スナックのカウンターで頬杖をついているとき、ちあきなおみみたいなママさんが、私の背広の袖口あたりをのぞきこみ、
「お客さん、これ、なぁ〜に?」
 と指差します。「えっ?」と袖口に目をやると、昼間の編集作業で付いたらしい版下のかけらです。
 ――長短可・委細面談・応相談
 アルバイトは長期でも短期でも歓迎します、くわしくは面接時に伝えますから、何でも相談してください、待ってますよ……。
 極限まで削り込んだ文字数で、情報と人情を同時に伝えるために、求人広告業界が編み出した三字熟語、四字熟語です。
 戦後復興期から高度経済成長期、採用力のある大手は別として、大半の小さな会社は景況にかかわらず、つねに人手不足に泣かされていました。ちゃんと人材さえ集まれば、うちはもっとがんばれるのにという悔しい思いが、ちまちに漂っていました。
 「板前見習い募集」「旋盤工急募」
 商店や町工場の軒先に貼ってある手書きの求人ビラを、私はなくしたいのだよ――と、数少ない苦み走った大人の営業部長が力説するのを、かっこええなあと思いながら聞いていました。
 多くの経営者や働き手、まちをかけずり回るベテラン広告営業マンの思いを、たっぷり詰め込んだ版下のかけらをつまみにして、二十三歳の私は、昭和の酒をグビリグビリと飲んでいました。