仕事の現場(6)左右反対の鏡の世界

 昭和五十年代、東京・新橋の印刷所。出張校正室から工場へ降りてきました。大組み担当者にレイアウト用紙を渡すと、いよいよ大組み開始です。
 一面ごとに一対一。私の新聞は四ページ建てですから、四つの台に分かれて大組みが始まりました。
 レイアウトの方針に基づき、記事の小ゲラや見出し、写真などで新聞紙面を組み立てていく工程を、大組みと呼びます。できあがった実際の紙面サイズのゲラが大ゲラで、大ゲラをもとに最終工程へ進んでいきますので、大組みはとても重要な工程になります。そのため、新聞では原則的に整理記者立ち会いのもと、大組み作業が行われていました。
 二十四歳の駆け出し記者の私にとって、大組みの立ち会いは、すさまじいプレッシャーでした。当時の新聞工務の担当者たちは職人気質。頑固一徹タイプのくせのある人間集団でした。
 しかも、活字は鉛でできているので、大判紙面を組み終わると、相当な重さになります。組み上げた重たい大組みをヨイショと掛け声をかけ、台車に乗せ換えて移動させたりしますので、大組み担当者には腕っぷしの強い筋肉マンが多かった。白髪まじりの年寄りのくせに、見事な逆三角形の背中を見せつけるが、へたくそな整理をすると、せせら笑うわけですから、はなたれ小僧にはたまったものではありません。
 思い出しました、レイアウトを「割り付け」と呼んでいました。私の新聞には、正規の割り付け用紙なんてしゃれたものはありません。前週の紙面の上に、赤いサインペンでレイアウトをし直すだけです。
 欠かせない道具が「倍尺」。一倍、二倍、二・五倍というふうに、活字の大きさや行数を数えやすいよう、目盛を入れた特殊なものさしです。新聞整理マンの目印であり、誇りでもありました。いまは全国の新聞の現場を見渡しても、一本も使われていないでしょう。私は平成になって休刊した当時の職場から、社旗とともに、倍尺も一本持ち帰りました。
 昭和の駆け出し記者がなんど組み直しても、記事が紙面にうまくおさまってくれません。気が付くと、どこぞで人でも刺してきた分かりやすい犯人のように、両手はサインペンで真っ赤です。ワイシャツや上着まで鮮血が飛び散り、犯行を隠すのに苦労したものでした。
 大組み担当者は、私がようやく書き上げた割り付け用紙にいちべつをくれると、ふふんと鼻で笑います。
 いまのパソコンレイアウトと異なり、いったん組み始めると、そう簡単にはレイアウトの変更はできません。一行十五字の活字は、小ゲラになっても一文字ずつばらばらのまま。だから活字がばらけないよう、数行単位のかたまりでつまんで、さっと台に置いていく。幅わずか数ミリの細い一行だけでも、ばらけずにつまんで移動させられます。いまから思うと、神技ですね。
 半面、逆にレイアウトがまずくて、あちこちレイアウトを変更しながら、小ゲラを移動させているうちに、ばらばらばらとばらけてしまうことにもなりかねません。職人にとっても恥ずべき展開です。そんな事態が発生すると、ただでさえインクで黒ずんで暗い工場の中、私たちの台だけ明かりが消えたように真っ暗に。スイマセンを連発して乗り切るしかありません。
 「で、次、どうすんの?」などと問われても、策の立てようがないからです。さながら鏡に映った世界のように、大組みはすべてが左右逆方向に進んでいきます。新聞記事は右から左へ読み始め、段が下がっても、右から左へ目線を動かしながら読んでいきます。しかし、大組みでは左から右へ記事を流していく。
 元々常識の足りない人間でしたが、そのわずかな常識が通用しません。あの悶絶するような不思議不条理不可解さは、昭和の大組みに立ち会った人でないと分からないと思います。整理の専門職でない私は、この鏡の世界に慣れないまま、新聞雑誌を通じてレイアウトから離れ、書き手に専念していくことになります。
 「記事が足りないよ」
 ドキリ、です。しかし、だらしない割に気の小さい私は、とっておきの緊急避難態勢を整えてあります。私はすばやく近くの棚まで走って戻り、「これ、使ってください」と、小ゲラを差し出します。「取り置き」です。前週までに余った記事を、記事が足りない時のために取って置くから「取り置き」です。対して初めから穴埋め用の記事は「埋め草」といいます。
 ようやく組み上がりました。再び、さっと走りだし、ローラーにインクを付けて待ち構え、大ゲラを刷るお手伝いです。ゴロゴロゴロ、メリメリ(紙をはがす音)。刷り上がった大ゲラを数枚確保すると、ほっとひと安心。どっと疲れが出るところですが、再び出張校正室に戻りましょうか。今度は大ゲラの校正です。