仕事の現場(9)人生初の取材は帯締めの展示会

 私がデパート関連の業界紙にいた昭和五十年代前半、デパート業界では「年商で天下の三越が安売りのダイエーに抜かれた」という事実が衝撃波となって伝わり、いまださまざまな波紋を引き起こしているさなかでした。
 高度経済成長期は二度のオイルショックを経て終わったのに、現場サイドには「置けば売れた」余韻がくすぶっていました。
 私の仕事は毎日山手線に乗って主要百貨店を回ること。各店をぶらぶらして、気が向いたら、売り場から事務所へ入っていく。広報マンであろうと、いろんな売り場の担当者であろうと、博学でおしやべりが好きな人たちばかりだから、よくコーヒーを飲みながらいろいろ教えてくれました。
 江東区荒川区など、下町の問屋さんやメーカーも訪ねました。さまざまな商品の展示会、発表会も春夏、年二回ぐらいのスパンで開かれていました。
 私の人生最初の取材は、女性用和装小物の展示会でした。帯締めとか和装用のハンドバッグとか。着物そのものにさわったこともない、着物と聞いて健さんの着流ししか思いつかないあんちゃんにとって、名古屋帯がどうしたこうしたとか、チンプンカンプン。小売価格と卸価格に相当する上代価格、下代価格というのも、はあ? の世界。三十行ほどの記事を書くのに苦労したものです。
 バルマン、ティエリー・ミグレー、高田賢三。まちがっていたらごめんなさい。そんな人たちの華麗なるファッションショーをはしごしたものです。会社のアサペンを裸のまんま肩にひっさげて、フッァション会場をうろうろしていました。

 自分のカメラがほしくなり、日曜日、そうじのバイトをしたのですが、すぐに飲んでしまってカメラ代はたまりません。そうじ会社の経営者は若い夫婦で、そうじに入るオフィスに、幼いわが子を連れてきていた。
 独立したばかりだったのか。日曜日なのに共稼ぎなので遊んでやれない。そうじの仕事をしながらあやしているわけです。その男の子が当時大ブームを呼んでいたスーパーカーの大ファン。「カウンタック」とか外車の名前を、よく回らない口で連発していました。会社の廊下でおもちゃの車を走らせて、おかあさんのそうじのじゃまをして、怒られていました。かまってほしかったのかもしれませんね 

 紙焼きした写真にトレペをかけて、エンピツで割り付けの指定をする。ある程度枚数たまったころ、小さな製版会社のおじさんが、会社まで回収にきてくれ、一両日ぐらいで凸版に仕上げて納品してくれました。
 写真一枚製版して、何百円という加工賃だったのではないか。新聞一ページに写真を五点使ったとしても、四ページで二十点。加工賃が一枚五百円としても、一週間で一万円程度にしかならない。それでも、二か月に一度ぐらい、駅前の居酒屋へ連れて行ってくれました。
 編集の二、三人を相手に、何千円程度のささやかな接待。利益を度外視した「若いの、がんばんなさいよ」というエールに他ならなかった。
 あの日懸命に教えてくれ、激励をしてくれた人たちと、これからも再会することなく、時は過ぎ去っていくだけでしょう。遠くから感謝のひと言です。