ご神仏の仕事学(2)新田開発と鎮守の森

 江戸時代、河川が流れ込む湾岸部で、盛んに新田開発が行われました。
 河川が運んでくる土砂を埋め立てに利用するものですが、大半を人力に依存する過酷な工事は成功率が低い。晴れて完成しても、台風で田畑が高波に呑み込まれてしまい、新田経営が破たんするケースが少なくありませんでした。
 新田は海辺の新天地ですが、ハイリスクハイリターンの危ういフロンティア。そこで、ご神仏の出番です。新田経営者の出身地などから氏神様を勧請し、わずかに小高い土手などに、ささやかな祠を立てて、お祭りします。海抜ゼロメートル地帯にあって、貴重な陸地を優先的に神様に提供しました。
 新天地で幸せをつかもうと集まってきた農民たちは、真新しい祠に手を合わせながら、懸命に働きます。ときに水害や塩害に苦しみながらも、新田は軌道に乗り始めます。粗末だった祠を建て直し、クスノキなどのご神木を移植して、徐々に新田の守護神にふさわしい風格を醸し出します。開拓民が初代から二代三代へ代わるごろには、菩提寺から末寺が招かれ、先祖供養のよりどころとなりました。
 やがて明治維新を経て、現在へ。新田はすべて姿を消してしまいましたが、今なお新田の記憶を刻んでいるのが、鎮守の森です。
 大阪湾岸部の住之江区。周囲では多くの新田が開発され、そのうちのひとつである加賀屋新田の会所跡が、加賀屋緑地として整備されています。住之江区自体、ほぼ全域が埋め立てによって誕生したエリアです。今でもご当地を歩くと、樹齢数百年というこんもりした巨木は、会所跡と社寺の鎮守の森だけにあることが分かります。
 同じ町内にある神社とお寺のふたつの森を、シラサギが悠然と舞い、往還しています。大らかながら荘厳なる、神仏混合の原風景です。
 今ごろの季節、かつて新田地帯では見渡す限りの水田が広がり、早苗がすくすくと育っていました。高さを感じるさせるものといえば、わずかに神社とお寺の森が目に入る程度でした。
 加賀屋新田屋敷跡の居宅部分。二階はこじんまりした作りながら、四方に窓がしつらえられ、すべて開け放つことができます。なぜでしょうか。旗振りタワーの役割を果たしていたとされています。
 米相場の値動きが、大坂中心部の堂島から、手旗信号で何か所かを中継して送られてきて、二階で受信。さらにこの会所から周囲の会所へも、手旗信号で転送されていたのではないかと、考えられています。さながら江戸時代の光通信です。
 新田地帯のような超平坦な世界では、高さとは、それだけで現代とは比較にならないほどの価値を持っていました。川の氾濫で一面が泥の海と化した時、家畜の牛たちが仏様に導かれるようにして、わずかに高台になっているお寺に逃げ込んできたという言い伝えを、古老からうかがったこともあります。社寺は生き物にとっての緊急避難センターでもありました。