ご神仏の仕事学(3)アクセス可能な記憶装置

 神社はアクセス可能な記憶装置。ありふれたまちなかのお社であっても、境内を歩けば、埋め込まれた記憶の糸口が見るかるはずです。
 正月に郷里で撮影した写真を、いまごろになって整理していたところ、思わぬ発見がありました。
 私のふるさとは北陸の富山市。富山城から東へ3、4キロのところに実家がありますが、少々ややこしい話ながら、江戸時代には加賀藩に属していました。
 前田利家を藩祖とする加賀藩の領地は加賀、能登越中の三か国。このうち越中の一部を独立させて富山藩としました。こちらも藩主は代々前田さんで、加賀藩富山県は、同族経営の本社と支社の間柄です。
 加賀百万石に対し、富山は十万石。加賀一国では狭いですから、越中平野の大半が、加賀百万石の巨大な藩経済を支える主力の穀倉地帯でした。わがふるさとの村も、そうした穀倉地帯の一隅にありました。私のご先祖たちが汗水たらして納めた年貢が、遠い金沢城を彩る絢爛豪華な金箔などに変わっていたわけです。
 久しぶりに氏神様のお社に立ち寄ったところ、境内に村の来歴を記す案内板が設置されていました。それによると、村が開かれたのは江戸初期の承応年間(1652〜54)。立山連峰を源流とする常願寺川扇状地を開拓して、新田が作られたのが、村の始まりとのことです。
 炎上する大阪城とともに、豊臣家が滅びた大阪の陣(1615年)から、三十年あまり。天下を統一した徳川政権が無難に船出し、加賀藩も藩の振興に励むようになったころでしょう。戦国乱世から、平和で経済優先の世へ。加賀藩に限らず、いくさが途絶えてあぶれた足軽たちが、全国で試みられた新田開発の貴重な戦力になったかもしれません。
 名だたる暴れ川の氾濫原を開拓する男たち。いや、女子どもも家族総出だったでしょう。石を取り除き、木の根を掘り起す。先人たちの艱難辛苦に頭が下がります。小さな「お宮さん」が、先人たちの仕事にまつわる再発見の機会を提供してくれました。