ご神仏の仕事学(4)頑固な封建エコ

 ふるさと富山のお社に設置された一枚の案内板を手掛かりに、ご先祖たちに会いに、越中富山の新田開発の現場へ踏み込んでみます。いろいろな役職名が出てきますので、お見逃しなきように。
 富山は地名の通り、名だたる山国。新田開発は急峻な山肌を滑り落ちてくる河川の氾濫を回避する治水、水田に欠かせない農業用水を確保する利水と、3点セットで行われていました。なお、加賀藩越中領と富山藩越中領の書き分けが素人にはうっとうしいので、この際、ごっちゃにして「富山では」としますので、ご了承ください。
 富山では、農業用水の開削工事は国家プロジェクトでした。藩主が鷹狩りにことよせて、何度も開削現場を視察に来ています。あるいは、別の藩主の場合、鷹狩をしていて、開削にふさわしい場所を見つけたという話も伝わっています。戦国武将で百戦錬磨の藩祖前田利家公が、戦地を駆け巡ったように、平時を生きる末裔の藩主たちには、開削工事は藩の死活にかかわる戦いだったのでしょう。
 視察に赴いた殿を出迎えたのは、開削の総指揮を執る藩士の「用水方奉行」。この奉行の下、「願人」と呼ばれる複数の有力者が、近隣の村々から多数の人夫を集めて工事を進めていました。村民の無料奉仕ではなく、賃金が支払われ、全額藩の負担でした。
 用水路が完成すると、「用水裁許」「湯大将」という専門職が任命され、用水の運営管理に従事していました。水を扱うのに「湯大将」とは、どんな意味合いが込められていたのでしょうか。
 もうひとつの懸案、治水。大規模な築堤工事が不可能な時代、豪雨などで河川がいったん暴れ出したら、制御は不可能。治水は治山に通じます。河川の氾濫を防ぐには、山の木を伐ってはいけないという考えに至ったのは、ごく自然な流れでしょう。
 藩は「七木の制」を設けます。マツ、スギ、キリ、ケヤキ、カラタケ、カラタケ、ヒノキ、クリなどの樹木は特例を除いて、伐採を禁じました。農民が火事に遭うなど、家屋の改修が必要な場合でも、藩の許可なしには自分の持ち山からでも伐採することはならないという厳しいルールでした。
 大きな氾濫を引き起こしかねない大河川の上流域は、「御林山」と呼ばれる藩有林で固めました。さらに民有林であっても、「御預山(おあずけやま)」として、実質的には藩の管理下に置き、乱伐を未然に防いでいました。
 無秩序な乱伐や荒廃にさらされている平成の山林事情と比較すると、「頑固な封建エコ」とでも呼びたいぐらいのインパクトを感じます。
 この治水治山の重責を担っていたのが、「山廻り」でした。七木の取り締まりのため、山から山へ飛び回る激務をこなしていたでしょう。当初は足軽が務めていましたが、のちに地元の名家に業務を委託するようになりました。この「山廻り」は農民ながら名字帯刀が許されていました。
 新田開発の専門職は「新田裁許」と呼ばれ、「山廻り」や、数十か村の村役人を統率する「十村(とむら)肝煎」とともに、農民ながら地元行政を担っていました。その上に、藩幹部の郡奉行が君臨して、間接的に統治をするというのが、富山の農山村の行政ユニットでした。
 藩士と農民の間に、双方の色合いを併せ持つ中間色の役職を置く。管理をされながら、ときには自分を通す。管理をまかせるふりをしながら、管理の手を緩めない。日本の管理社会のしぶとい二枚腰というか、持ちつ持たれつの弾力的な一面を強く感じます。参考文献:『富山の歴史』(山川出版社