しごと談義(6)たった一度のオリンピック取材

●単身派遣マイナー記者会を開設
 世界陸上モスクワ大会が昨日、開幕しました。女子マラソンで福士選手がうれしい銅メダル。半面、男子百メートルでは桐生、山縣両選手に期待したものの、やはり予選敗退という残念な結果に終わりました。世界陸上の取材経験はありませんが、オリンピックの取材なら一度だけあります。1988年のソウル五輪でした。
 選挙取材同様、カメラ一台をひっ提げて、単身ソウルヘ。英語もハングルもからっきしだめなうえに、事前の準備はほとんどなし。金浦空港からタクシーに乗った瞬間、「こらあかんわ」と気づきました。標識も看板もラーメン鉢の模様みたいなハングル文字ばかりで、まったく読めません。少しは漢字まじりだろうから、意味ぐらいはわかるだろうともくろんでいたのですが、甘かった。
 プレスセンターなるところへ行くと、日本の大手紙を含む世界の有力メディアが広い専用ブースを構えていました。それは活気にあふれ壮観なものでした。
 わたしは大学の学食みたいに長テーブルが並ぶオープンスペースを利用することに。まもなくひとりで不安げにうろついている日本人たちと知り合いになりました。北陸や東北の地方新聞の記者やカメラマンたちで、わたしと同じように単身派遣組でした。
 各員のしごとはひとつ。地元出身選手の取材です。ときおり長テーブルの一隅を借りて、情報交換。さながら「日本単身派遣マイナー記者会」の開設です。どこからどの競技場行きのバスが出ているとか情報交換はしますが、行き先はバラバラ。取材する選手が違うからです。

東西ドイツが識別できない
 のんびりできません。大阪の本社では、一面トップをあけて、わたしの原稿を待っています。男子体操で、大阪の清風高校の高校生選手がコンビで活躍しました。くわしくは覚えていませんが、銅メダルを取りました。晴れて翌日の紙面を大々的に飾ることができましたが、まあたいへんでした。
 広い競技場で、ひとりぼっち。かててくわえて、わたしは体操競技なるスポーツに関しては、取材はおろか、そもそも会場でナマ観戦するのも初めて。テレビはひとつの種目のひとりの選手の演技しか映しませんが、会場ではいろいろな種目が同時に行われていることも、初めて知りました。
 オリンピックでありながら、実力下位のチームでは、鉄棒や吊り輪の演技に失敗し、バタンバタンと落下する選手が続出。床運動でも床に打ちのめされ、足を引きづりながら退場する選手も。あの兄ちゃん大丈夫かいな。えらいスポーツやで。どよめきにつられて、よそ見しているうちに、肝心の日本人選手の演技を見逃してしまうということがたびたびありました。ホンマなさけない話です。
 それでも終盤を迎えて、日本チームがメダル圏内で戦っていることは、なんとなく分かりました。ライバルたちの動向が気になります。表示された電光掲示板に注目するのですが、わたしには表示の消えるのがはやすぎました。
 国名がアルファベットの三文字で表示されます。日本なら「JPN」という具合です。ところが、当時はベルリンの壁が崩壊する前で、ドイツは東ドイツと西ドイツに分かれて張り合い、日本チームとも競り合っていました。はっきり覚えていませんが、この東西両ドイツの三文字表記がよく似ていた。
 「場内アナウンスを理解できない」→「電光掲示板が表示されたことに気が付くのが遅れる」→「遅ればせながら日本の位置をチェックする」→「張り合っているドイツがどっちのドイツか確認しようと思ったら、表示が消えてしまう」→「結局、日本のメダルの行方は分からない」――という悪循環でした。
 

●「子どもは親のところへ戻ってくる」
 それはさておき、日本のメダルが確定。清風コンビ選手の談話のほかに、会場で応援していた選手の両親や学校関係者の反響もおさえることができ、少しは立体的な紙面構成にすることができました。
 このささやかな快挙を支えてくれたのが、マイナー記者会会員の助言でした。その記者は高校野球などのアマチュアスポーツの専門記者。わたしがスポーツ取材のどしろうとだと知ると、かわいそうに思ったのか、いろいろ教えてくれました。
「子どもは競技が終わると、親のところへ戻ってくるよ」
 この助言を忠実に守り、観客席で見守る清風コンビの両親や学校関係者と接触しました。そのうち「へえ、あんたも大阪から来たんかいな。ご苦労はん」ということになり、会見では聞けない談話をぼちぼちと聞かせていただくことができました。
 競技フロアや観客席をひとり駆けずり回りました。小走りです。階段がつらい。取材を終えて外へ出ると、夜風を受けて全身の汗が冷えていく感触を、いまも覚えています。