しごと談義(11)「たそがれ清兵衛」ケースメソッド

●「今夜の豆腐汁は味がようござりますこと」
   清兵衛は、出来上がった飯の支度を、茶の間に運び、妻女に喰わせながら自分も飯を喰う。
  「おまえさま、今夜の豆腐汁は味がようござりますこと」
  「うむ」
  「食事の支度も、だんだんと手が上がるものと見えますな。申しわけございませぬ」
  「……」
   食事の後始末が済むと、清兵衛は外に出て、同僚の小寺辰平の妻女から、内職の材料を受け取  ってくる。内職は虫籠づくりである。

 藤沢周平の短編「たそがれ清兵衛」の印象深い一節です。同名の短編集で冒頭を飾る作品です。
 井口清兵衛は家禄五十石の平藩士。下城時刻を待って早々に家に帰り、病に倒れた妻女の介護に務めています。夕刻から忙しくなることから「たそがれ清兵衛」と呼ばれていることに本人も気づいていますが、気にしていません。
 清兵衛の手慣れた介護ぶりは妻女に食事を与えながら、自分も食事を済ませてしまう手際の良さに現れています。妻女も「申し訳ない」と詫びつつも、亭主の作ってくれたみそ汁をほめる素直さがいい。時代小説百年あまりの春秋で、妻に対する夫の介護を、肯定的にとらえた初めての作品ではないでしょうか。
 清兵衛は忙しい。食事が終わると、今度は内職に精を出す。内職を回してくれる同僚の妻女に、お愛想を兼ねて、「いつもすまん」などと頭のひとつも下げているに違いない。事情を知っている妻女も清兵衛にやさしい。
「井口様、評判がよろしいですよ」
「それはありがたい」
「先方が少し急いでいらっしゃるのですが」
「任せておいてください。さっそくこれから取り掛かります」
 こんなやりとりが交わされているかもしれません。下級武士と家族たちのもうひとつの世界が、ともり始める明かりの中に、ほのかに浮かび上がってきます。

●介護を済ませてテロリストに変身
 清兵衛は剣の達人でもあります。お家騒動を巡り、一方の派閥に加担し、敵対する要人を襲撃するよう、打診されます。当初は渋っていたのですが、「(妻女を)名医に診せてやる」の殺し文句に心が動いて引き受けしまいます。
 しかも、介護と襲撃を両立できるよう、作戦を一部変更。下城後、いったん家に戻り、かいがいしく妻の世話をした後、襲撃に出掛けるという、これまた時代小説史上、異例の展開になります。
 首尾良く襲撃に成功するのか。妻女の病は回復に向かうのか。結末はそれぞれ読んで味わってもらうこととして、この作品集の主人公は共通項で結ばれています。奇人変人にして剣の達人。「たそがれ清兵衛」に続く、御仁たちを順に列挙しておきましょう。
 「うらなり与右衛門」「ごますり甚内」「ど忘れ万六」「だんまり弥助」「かが泣き半平」「日和見与次郎」「祝(ほ)い人助八」の面々です。「かが泣き」とは海坂藩の方言で、すぐに弱音を吐く、ぼやくという意味で、「ぼやきの半平」といったところでしょうか。「祝い人」はお乞食さんを指し、妻に先立たれた助八の、いつも汗まみれでむさぐるしいやもめ暮らしを揶揄しています。
 こうした非主流派の人間たちを描かせると、藤沢周平はさりげなくも比類なき技の冴えを披露してくれます。

●赦されたトリックスター
 男たちはそれぞれの事情から、公私ともにパッとしません。剣の達人とはいえ、剣名が天下にとどろくような凄腕ではない。ずいぶん前に引退して球界からも離れ、ほとんど忘れ去られた元プロ野球選手の趣。夕刊紙の「あの人は今」欄に、「よく見つけましたね。ホントに私でいいんですか」と、頭をかきながら出てくるような存在です。
 筆者が注目したいのは、主人公たちのハンディの方です。「たそがれ」「うらなり」「ごますり」「ど忘れ」などの異名には、からかう心はあっても、許しがたい差別の匂いは感じられません。わずかな弱みにつけ入り、しつような差別で追い込んでいく絶望的な悲しさは回避されています。
 「祝い人助八」では、助八はあろうことか、藩主直々に悪臭をとがめられます。

   藩主はにがい顔で悪臭を放ちながら立っている助八を見た。そしてたしなめた。
  「家中は庶民の範、むさぐるしいのはいかんぞ」

 藩主も賢明で心やさしい。助八を糾弾することなく、たしなめる程度に抑えます。藩主の悪臭摘発事件を受けて、助八への厳罰を息巻く幹部が出てきますが、助八の上司の計らいで事なきを得ます。
 つまり助八は藩主を含めた周囲の人物たちに、軽い揶揄を浴びる代償として、赦された存在になっていきます。清兵衛も助八も、人々にとって、何かと暮らしにくい世間、刺激の少ない平凡な毎日を、少々かきまぜて風を送り込んでくれるトリックスターであり、半ば現実離れした神のような存在です。だからこそ清兵衛の一撃、助八の反撃が、共同体の命運をも左右しかねないほどの意味合いを持ってきます。日本社会に憂愁と諧謔を帯びて低く流れる通底音を、藤沢周平は繰り返し聞かせてくれます。

●本日の講師は「ど忘れ万六」先生!
 ワークライフオブバランス、ダイバーシティ。聞き慣れない者には舌をかみそうなカタカナ用語をはじめ、現在のビジネスパーソンには覚えるべき課題が山積しています。
 そこで、この「たそがれ清兵衛」を研修本の一冊に加えてほしい。
 仕事と生活のバランスを保つ大切さは、清兵衛が教えてくれます。だれも差別してはいかん、それぞれに出番がある。個性を認め合ってともに働くダイバーシティの醍醐味は、助八の他にも、「ど忘れ万六」や「ごますり甚内」らの講師陣が存分に示してくれます。泊まり込みの研修会場で、それぞれの御仁の実例に即して解決策を導き出す「たそがれ清兵衛」ケースメソッドとして活用できるのではないでしょうか。
 変人奇人との付き合い方は実は、そんなに難しいことではないのもかしれません。
 多少の弱点には互いに目をつぶり、良い意味で見ないふりをする。どうしてもがまんできなければ、せめて、あまり毒のないあだなをつけてうわさし合う程度におさえておく。だれもがささいな不運から、少数派に転落する危険性と背中合わせに暮らしていることを知っていたからです。
 不運は受け止めるしかない。
 問題と真正面から向き合い、問題解決へ全力を尽くす――ことをしない方法です。多少の不平不満を逆手に取り、折り合いをつけて回していく。狭い共同体で、あしたもあさってもきのうと同じように生きていかざるを得ない日本の先人たちが編み出した、みんなが生きのびるための必殺剣です。変化の速いグローバルの時代といわれる今も、十分通用すると思います。