第64回/ご神仏のしごと学(11)赤々と窯の火が燃えるまち

●大阪ガラス発祥の地
 神社仏閣は公園と同様、地域の公共スペースの役割を兼ねているため、地域ゆかりの史実や伝承にちなむ顕彰碑が建立されるケースが少なくありません。社寺めぐりの楽しみのひとつです。大阪天満宮の一隅に、「大阪ガラス発祥之地」の石碑が立っています。
 和製の吹きガラスと聞けば、江戸切子や薩摩切子が思い浮かびますが、大坂が切子で先んじていたことはあまり知られていません。江戸中期の宝暦年間、長崎の商人がオランダ人から吹きガラスの技術を習得。大阪天満宮門前町である天満天神で、びいどろの製造を手がけたのが、大阪ガラスの始まりでした。
 維新を経て、文明開化へ。明治三十七年(一九〇四)、島田孫市なる人物が国産板ガラスの本格生産に成功したひのき舞台も、天満天神でした。
 板ガラスは日本家屋に外光を取り込む画期的製品でした。住宅革命を巻き起こします。大正末期から昭和初期にかけ、大阪は都市としてのピークともいえる「大大阪」時代に突入します。新しい都市にふさわしい新しい住宅の魅力のひとつが、あたかも明日への希望のような外光を取り込む「窓ガラス」でした。

●魔法瓶は今も大阪の地場産業
 大阪はくすりのまち。くすりを入れるびんやアンプル、実験用のフラスコ、試験管など、精度を要求される需要が大阪のガラス産業を厳しく鍛え上げました。
 超高級ウイスキーは特殊なガラスびんに入っていますね。ガラスの王冠をキュッキュと鳴らしながら左右に揺らして持ち上げると、ポンと抜ける。すきまがあってないような。いわく言い難しの独特の間合いを実現する技術が必要ですが、雑誌の大阪ガラス特集で、こうしたウイスキーびんを製造販売する専門商社に取材したことがあります。あのキュッキュッキュ、ポンは、特殊なノウハウだそうです。
 魔法瓶は現在も大阪の地場産業です。メーカーの大半は今なお、本社を大阪に構え、業界が一丸となって切磋琢磨する競争的繁栄の風土も継承しています。かつてのガラス産業勃興期の矜持健在です。

●貨幣製造の技術が民間へ移転
 天満天神のものづくりにはもうひとつの大きな柱がありました。明治初期に創設された国の造幣局です。貨幣鋳造には機械設備そのものの設計製造も含めて、金属の溶解、成形、デザインなど、さまざまな技術が必要不可欠です。貨幣が磨き上げた先端技術がのちに民間に移転され、大阪のイノベーションを加速させました。
 写真では遊覧船が大川(旧淀川)を海に向かって下っていますが、右岸に造幣局が今もあります。工業立地の観点から、加工する金属やガラスを溶かす大量の石炭コークス類を安定して運べるのは、船による水運でした。
 そのため大川の川べりに沿って、造幣局やガラスメーカーなどが立ち並び、至るところで窯の火が赤々と燃えあがっていました。ご当地では「天満切子」のブランドで、切子製造の新しい伝統が刻まれ始めています。