第71回:「しごと談議」(17)ボールペンのインクが凍った朝

●昭和末期真冬の市場取材
 太平洋側を波状的に襲った寒波で、首都圏が二十年ぶりという大雪に見舞われ、混乱しているようです。大阪も積雪こそないものの、なかなか気合の入った冷え込みが続いています。私の住む団地では、おりしもエレベーター工事の真っ最中。昭和末期の設置で老朽化が進んだため、耐震用の新品に総入れ替えするとのことで、一か月がかりの大工事です。
 期間中、八階のわが家までの階段の上り下りはかなりきついですが、工事現場に立っている警備員たちには頭が下がります。吹きさらしのエレベーターホールに、火の気はなし。長時間の立哨で体の芯まで冷えているはずですが、住人たちに精いっぱいの愛想を振りまいています。辛さなど、微塵も感じさせない。プロの矜持でしょう。
 警備員と言葉を交わすうちに、夕刊紙記者時代、団地が立った昭和末期の同じころ、大阪市中央卸売市場に取材したことを思い出しました。季節はちょうど今ごろ、真冬でした。私は三十代、「大阪の台所の一日を追う」というようなベタなルポ取材が得意でしたので、深夜二時半ごろ、団地の近くで写真部員に車で拾ってもらって、三時すぎには市内福島区の市場へ。鮮魚などを積み込んだ大型トラックが陸続と到着してきます。

●赤々とたき火がほむら立つ
 取材のいちばんの目玉はマグロのセリ。四半世紀以上も前のことで、あまりよく覚えていませんが、丁々発止のやりとりが続くかと思いきや、一発勝負みたいな感じであっさり落札者が決まる。少し拍子抜けしたものです。
 セリの風景は記憶の彼方に消えてしまった半面、いまだに忘れられないのは、すさまじいまでの寒さでした。平成になって全面改装された新市場の現況は知りませんが、当時はコンクリート造りの開かれた巨大空間に、カチンコチンの冷凍マグロがズラリと並んでいました。大気の寒さプラス強力冷凍の寒さです。
 ゴム長靴から寒さが這い上がってきて、歯がふるえてガチガチ鳴る。談話を取っていたら、不意にボールペンが書けなくなりました。インクがあるのに、ペン先をグリグリやっても、やっぱり書けない。原因が分かりました。あまりの寒さで、インクが凍って細い管が詰まってしまい、書けなくなったのでした。インクが凍ったのは生涯、あの瞬間だけです。
 このインク凍結体験とともに強烈に印象に残っているのが、たき火の炎です。人の背丈を超すようなたき火を遠巻きにしながら、人々が暖を取っています。よもや建物内でたき火など不可能だと思うのですが、記憶では建物の中だったような気がします。天井が高かったから可能だったのでしょうか。強烈な寒さと対峙するような紅蓮の炎に、市場で働く男たちの気迫を見たような思いでした。

●社会を下支えするシニアワーカー
 一段落して市場内の喫茶店へ駆け込みました。一杯のコーヒーのなんと温かかったことか。買い出し客が増え、市場内のラッシュは激しくなるばかり。至るところに警備員が張り付いて交通整理に当たっていました。
 中にはかなり年配の警備員も少なくありませんでした。「この国はボールペンのインクまで凍りつくような寒さの中で、年寄りに働かせる国なのか」と、毒づきたい心境でした。
 始発の電車に乗ってみてください。乗り込んでいる人たちの大半はシニア世代です。始業前のオフィスを掃除する人や、開店前の飲食店で仕込みを手伝う人たちです。駅に着くまで目をつむり、つかの間の休息をとる人が目立ちます。若い人が嫌がる仕事を黙々とこなしてくれるシニア世代がたくさんいます。雑誌の記者時代、締め切り外しを詫びつつ、徹夜明けで自宅に帰る私と入れ違いで、仕事場に向かう人生の先輩たちに、無言のエールを送ったものでした。
 全国津々浦々の現場で立哨に取り組む警備員たち、早朝の職場に向かう掃除や仕込みの皆さん。いまがいちばん冷え込みのきつい季節。もうすぐ春が訪れます。お体に留意のうえ、ご健闘されんことを祈ります。