第89回「しごと談義」(34)「立て板に水」VS「言い淀む」

●相手の沈黙に耐えられる記者いますか?
 現象学や臨床心理の観点からすると、我々のしゃべっていることのほとんどは、自分のオリジナルではないらしい。どこかでだれかから仕入れたネタばかりで構成されている。
 自信たっぷりの「立て板に水」ほど、当人の考えではない。むしろ、「あのおぉ」「えーとー、ですねえ」などと、ためらう言い淀みの瞬間こそ、傾聴に値する。本人が本人なりに思いを巡らし、必死に考えているからだ。
 テレビや新聞雑誌ネットなどのメディアでは、「立て板に水」は大歓迎される一方、「言い淀み」シーンはボツになる。つまり、メディアではほとんど本人の真意は反映されていない、ことになってしまう。
 カウンセリングの現場では、カウンセラーは依頼人が沈黙の果てにつぶやく言葉を、粘り強く待つという。しっかり待つ力も、名カウンセラーに必要な能力のひとつらしい。
 カウンセリングの「待つ流儀」を取材というフィールドに採り入れようと、ここ数か月、再三試しているが、ほとんど成果が上がらない。取材中の沈黙が怖い。沈黙に耐えられない。
 先方が黙りがちになると焦ってしまい、いかんいかんとつまらない質問や雑談などをぶつけて沈黙を埋めてごまかしてしまう。結果的にいつものように凡庸な答えしか引き出せない。
 ――すんません、つまらないインタビューしかできなくて。こんな後悔が取材を終えた筆者から言葉を奪う。しばらくはこの繰り返しの中から、かすかに活路が見えてくるを待つしかないのだろうか。