第99回機械油のにおいが帰ってくる

●機械とは無縁の事務屋にしみつくにおい
 父親は工作機械メーカーに勤めていた。筆者が幼いころ、自転車で帰宅すると、機械油のにおいがした。機械のように硬いにおいだったが、嫌いではなかった。父親は事務屋だ。機械には向かわない。それでも毎日工場の一隅にいるうちに、作業服や体に機械油のにおいがしみついたのではないか。労働者のにおいだった。
 帰ってくるのはいつも8時ごろ。日の高いうちに帰ってくることはめったにない。旧制商業中学出身の中間管理職だった。会社人間で、サービス残業を繰り返していたに違いない。筆者は高校に入るころまで、日本のおやじたちはみんな夜8時ごろまで働くもんだと思い込んでいた。
 大雪に見舞われた。父親が出向先の系列工場で、総務の管理者を任されていたころだ。除雪が間に合わず、通勤のクルマが使用できない。工場から歩いて午前3時ごろ帰宅。こたつにくるまって2時間ほど仮眠すると、まだ暗い雪道を工場へ向かって歩き出した。
 責任感の強い男だった。数年前に天寿を全うした。今もたまに工場を取材し、機械油のにおいをかぐと、小さな笑みを浮かべて帰ってくる父親を思い出す。