第75回「しごと談議」(20)蔵屋敷で働く


●殿様専用VIPルームのない土蔵限定蔵屋敷
 大阪市北区中之島できょう10日開かれた蔵屋敷跡地の現地説明会に参加してきました。天下の台所・大坂の一端を垣間見ることができる貴重な体験でした。
 現地説明会が開かれたのは、中之島六丁目の大阪国際会議場西隣の開発用地。江戸期の中之島には全国各藩の出先機関である蔵屋敷が立ち並んでいたことが知られており、江戸後期には蔵屋敷は百二十に達していました。ご当地は十八世紀末から幕末にかけて、八千石の矢島藩(秋田県)に続いて、二万石の鹿島藩佐賀県)が使用していた蔵屋敷とみられます。これまでに広島藩高松藩熊本藩などの西国有力大名の蔵屋敷の様子は、残された絵図や発掘調査などで分かっていましたが、小さな藩の蔵屋敷の実態が明らかになったことに意義があるとのことです。
 判明した最大の特色は、土蔵中心の質実剛健主義。雄藩の蔵屋敷の場合、土蔵の他にも、藩主が参勤交代時に宿泊する貴賓室が併設されていました。しかし、この蔵屋敷跡からは四棟の土蔵の他には、大規模な建物は見つかっていません。しかも、敷地内に土蔵がびっしり並び、土蔵の広さは雄藩に比べても、勝りこそすれ劣ってはいません。つまり、殿様がたまにしか使わないVIPルームなどのぜいたくは徹底的に省く。そのうえで、藩経済の浮沈を握る米取引の成功に全力を尽くす。実質最優先の姿勢を、蔵屋敷の構造から読み解くことができそうです。
 蔵屋敷跡全景の写真に注目してください。画面奥が堂島川で、手前が蔵屋敷の敷地です。中央部が通路になっており、左右に細長い土蔵が立っていました。石垣跡がその名残です。秋田や佐賀から海路運ばれてきた米を堂島川左岸の船着き場でおろし、通路から土蔵に運び込んでいたと思われます。

●単身赴任の男くさい職場
 この蔵屋敷でどんな人間たちがどんな思いで働いていたのか。私の関心はそこに向かいますが、残念ながら今回の調査だけからは、彼らの実像に肉薄することはできません。そこで、現地で複数の調査員から聞いた断片的情報と許される範囲内の想像力を駆使して、彼らの勤務ぶりに迫ってみましょう。
 留守居役率いる蔵屋敷要員はせいぜい10名規模。保守本流の武闘派というよりも、情報や知力で勝負する経済官僚といえますが、全員が単身赴任、女っ気のない男くさい職場でした。かまどが見つかっていないため、食事は仕出し弁当で済ませていたと思われますが、実は武士たちには料理好きがいたそうです。他藩ではありますが、単身赴任先で同僚たちに自慢の料理をふるまったと日記に記している武士もいます。大坂に集まる全国各地の珍味名産品を、自ら包丁を握って味わっていたかもしれません。

●迫りくる大転換の予感と米相場
 雄藩は広大な蔵屋敷を同じ場所にデーンと構えていました。対し、中小の藩は蔵屋敷を開設したりしなかったり。蔵屋敷開設や移転のメカニズムはあまりわかっていません。
 留守居役と聞くと、気楽な留守番役というイメージがしますが、のんびり遊んですごせる名誉職や閑職ではありません。米の相場で失敗すると、藩財政を直撃します。矢島藩はご当地の蔵屋敷を引き払った後、どうしたのか。詳しい経緯は不明ですが、ひょっとしたら米相場でさほど利益が出なかったか、失敗したため、大坂から撤退したのかもしれません。
 このまま大坂でかんばるか、そろそろ江戸に拠点を移すべきか。それとも地元再生に徹するのが賢明なのか。「幕末」という言葉も存在しなかった時代、それでも一見平凡な日々が続きながら、大転換のきなくささが漂い始める中、小さな藩の経済官僚たちは、何を感じていたのでしょうか。
 いまの中之島には、大阪でもっとも美しい水辺の景観が広がっています。堂島川右岸に中津藩蔵屋敷跡の顕彰碑が立っています。維新の立役者のひとり福沢諭吉は、中津藩蔵屋敷内の長屋で生まれ育ちました。歴史の流れを見つめてきた堂島川に、どんな未来像が映り込んでいるのでしょうか。