第69回:「ご神仏の仕事学」(15)人間蓮如のダイナミズム

●「法然はやさしく」「親鸞は深く」「蓮如は広く」
 手元の資料を整理していると、真宗大谷派難波別院が制作した「蓮如上人と大阪」と題する小冊子に再会しました。蓮如上人は浄土真宗中興の祖。作家の五木寛之さんは念仏の教えを説いた法然親鸞蓮如の三名僧の布教の姿勢を比較し、「法然はやさしく」「親鸞は深く」「蓮如は広く」と見事に表現しています。
 蓮如は言葉の力を布教の軸に据え、教線の拡大を図ります。民衆に話しかけるように膨大な量の文章を書き綴りました。貧しい民衆にはお寺を構えたり、仏像をあつらえる経済的ゆとりなどありません。あるいは様々な事情で表立って念仏を唱えることが叶わなかった人たちもいたことでしょう。
 そんな逆境下、秘密裡に届いた蓮如の力強い肉筆の文章を、表装して掛け軸にします。そのうえで、信頼できる門徒仲間の住まいに結集し、細く丸めていた掛け軸を、さっと広げて壁につるす。そうするだけで、その場が厳粛なる念仏道場に早変わりします。
 そして、一文を囲んで念仏を唱和し、困難と向き合う力を充電させると、再び掛け軸をくるくると巻いて、すばやく次の集会場所へ。蓮如の一文さえあれば、いつでもどこでも臨機応変、移動式の寺院を開設することができる。迫害を乗り越えるたくみなゲリラ戦法でもありました――というのは、地域情報誌「大阪人」の取材などを通じて、僧侶の皆さんからお聞きした話です。

●デビューが遅い超大器晩成型
 小冊子には蓮如の略年表が記載されています。
「父存如没す。異母弟応玄と本願寺住持職を争い、叔父如乗の尽力で本願寺第八代を継職」(一四五七年(長禄元年)・蓮如四十三歳)
「正月、延暦寺衆徒、大谷本願寺を破却。蓮如親鸞の御影を奉じて近江に移る」(一四六五年(寛正六年)・蓮如五十一歳)
 蓮如は世に出るのがかなり遅く、一門を率いてからも本願寺の存続すら危うくなりかねない法難に遭遇します。しかし、その後もあきらめることなく、八十五歳で天寿を全うするまで布教に心血を注いだことはよく知られている通りです。

●二十七人目の末っ子は八十四歳で誕生
 わたしがこのブログを書こうと思い立ったきっかけは、この略年表と併記されている「蓮如上人の妻と子供」欄に目を通したからです。
 蓮如は二十八歳で最初の妻と結ばれて以来、生涯に四人の妻と苦楽をともにしました。授かった子宝は総勢二十七人。二十八歳から四十代までに十二人、五十代で五人、六十代でふたり、七十代で四人。八十代でも四人生まれ、二十七人目の末っ子の男児が産声を挙げたとき、蓮如は八十四歳になっていました。
 あまりにもダイナミックな展開で、その背景にある意味合いを読み解こうにも、現代の常識や固定観念は通用しません。宇宙観、生命観、身体感覚から、夫婦親子の情愛、日々の生活の流儀まで、私たちとはずいぶん違う異次元の世界を、蓮如は生きていたのではないでしょうか。人間蓮如のダイナミズムは、私たちの手の内に残された数少ない切り札の一枚のようにも感じられます。
 仕事と暮らし、ワーク・ライフバランスをどのように考えていたのか。一凡夫ライターには叶うことはないものの、もしもインタビューさせていただいたら、どんな答えを拝聴できるのかなどと、夢想しています。